過ごし⽅

四賀の過ごし方

四賀地区は江戸時代の善光寺街道、江戸街道が通っており3つの宿場
町(保福寺宿、刈谷原宿、会田宿)が置かれていました。
今でもかつての宿場町には当時の雰囲気が残っており
歴史的な趣を感じることができます。
是非訪れてみて欲しい。そんな四賀の名所をご紹介します。
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受け継がれしもの

日本固有の文化である家紋は、今日まで息づいており、家系、血
統、家 柄、地位を表すために用いられてきました。

菱形を三段に重ねあわせた文様の小澤家の家紋。小澤家に眠っていた
蔵書などを調べてもその由来はわかりませんでした。

ただ、家紋は先祖から脈々と家の風習、文化、思想を含め受け継がれ
たものです。同家の再生を行うことは家紋を受け継ぐことであり、この
家紋に恥じぬよう、旅の新しい形、文化を創造し、後世に伝えていきた
いと考えております。

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旅行文化の始まり

江戸時代の参勤交代により、街道や宿場が整備され、当初武士のも
のであった 旅 が庶民へと広がりをみせ、旅行文化が発展するきっか
けとなりました。

この制度の中で生まれたのが、大名の宿「本陣」です。

私たちは、本陣小澤家の再生を通して、現代人に新しい旅や生活の
提案をしていくとともに、里山旧四賀村の再生に寄与していきたい
と考えています。

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旅の守り人

四賀には「道祖神」が約100体あり、厄災の侵入防止や子孫繁栄
などを祈願するために、村の守り神として主に道の辻に祀られていま
す。

本陣小澤家を宿泊施設として再生する私たちにとっては、まさしく
お客様の旅の守り人としての意味を持つ大切なものです。

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棚田

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四賀キャニオン

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廣田寺

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住所 松本市会田566
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保福寺

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住所 松本市保福寺町724番地
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洞光寺

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住所 松本市刈谷原町692
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藤池の百体観音

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住所 松本市中川7887
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保福寺峠 の ウェストン碑

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十一 横川の大イチョウ

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住所 松本市中川横道下4825-1他
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HISTORY 歴史

長野県松本市四賀地区

 四賀地区は江⼾時代の善光寺街道、江⼾街道が通っており3つの宿場町(保福寺宿、 刈⾕原宿、会⽥宿)が置かれていました。特に保福寺宿は松本藩の城主が江⼾に参勤交代に⾏くルートで、交通の要所として松本藩随⼀の規模を誇る規模であったといいます。
また四賀地区は、中世には伊勢神宮直轄の領地、江⼾時代には幕府直轄領という稀な背景を持ち、独⾃の⽂化圏が形成されていきました。
明治の初めの廃仏毀釈により、松本藩内でも多くの寺院が破壊されましたが、四賀地区は幕府直轄領だったことから影響を受けずに済み、今も尚中世からの寺社仏閣が多々残っている、歴史情緒溢れる街並みとなっています。また、かつての宿場町には当時の雰囲気が残っており歴史的な観光資源としても注⽬されているのです。

本陣⼩澤家

かつて松本藩の殿様が松本から保福寺峠を越え、上⽥を経て江⼾に向かう参勤交代のルート「保福寺道」。またの名を「江⼾街道」とも呼ばれていました。江⼾へ運ぶ年貢⽶の物流の拠点でもあり、藩内⼀の規模を持っていたと⾔われています。その本陣である⼩澤家は多くの⽥畑を有し、栄華を誇っていました。いくつもの蔵には⽶が収められ、「⼩澤家の蔵がいつ開くかで、⽶の値段が変わる」と⾔われており、当時の地域経済に与える影響が⼤きかったことが伺えます。
本陣⼩澤家は江⼾街道の旧保福寺宿のほぼ真ん中にあり、参勤交代の⾏き帰りに殿様の休憩に使われていました。その頃の建物は明治41年の家事で全焼してしまいしたが、⼤正2年に昔通り復元したものが現在の建物です。天正11年(1583年)の記録では、⼩澤家は松本地⽅を⽀配していた⼩笠原⽒から屋敷を賜った⼩澤縫殿介の⼦孫。家紋も⼩笠原⽒と同じ「三階菱」です。
⺟屋、離れ、⼤⼩合わせて4棟の蔵の建物群が現存していますが、これらの歴史的・⽂化的価値を明らかにするため信州⼤学・松本市の協⼒のもと調査を進め、⽂化財登録を⽬指しています。