四賀地区は江⼾時代の善光寺街道、江⼾街道が通っており3つの宿場町(保福寺宿、 刈⾕原宿、会⽥宿)が置かれていました。特に保福寺宿は松本藩の城主が江⼾に参勤交代に⾏くルートで、交通の要所として松本藩随⼀の規模を誇る規模であったといいます。
また四賀地区は、中世には伊勢神宮直轄の領地、江⼾時代には幕府直轄領という稀な背景を持ち、独⾃の⽂化圏が形成されていきました。
明治の初めの廃仏毀釈により、松本藩内でも多くの寺院が破壊されましたが、四賀地区は幕府直轄領だったことから影響を受けずに済み、今も尚中世からの寺社仏閣が多々残っている、歴史情緒溢れる街並みとなっています。また、かつての宿場町には当時の雰囲気が残っており歴史的な観光資源としても注⽬されているのです。
かつて松本藩の殿様が松本から保福寺峠を越え、上⽥を経て江⼾に向かう参勤交代のルート「保福寺道」。またの名を「江⼾街道」とも呼ばれていました。江⼾へ運ぶ年貢⽶の物流の拠点でもあり、藩内⼀の規模を持っていたと⾔われています。その本陣である⼩澤家は多くの⽥畑を有し、栄華を誇っていました。いくつもの蔵には⽶が収められ、「⼩澤家の蔵がいつ開くかで、⽶の値段が変わる」と⾔われており、当時の地域経済に与える影響が⼤きかったことが伺えます。
本陣⼩澤家は江⼾街道の旧保福寺宿のほぼ真ん中にあり、参勤交代の⾏き帰りに殿様の休憩に使われていました。その頃の建物は明治41年の家事で全焼してしまいしたが、⼤正2年に昔通り復元したものが現在の建物です。天正11年(1583年)の記録では、⼩澤家は松本地⽅を⽀配していた⼩笠原⽒から屋敷を賜った⼩澤縫殿介の⼦孫。家紋も⼩笠原⽒と同じ「三階菱」です。
⺟屋、離れ、⼤⼩合わせて4棟の蔵の建物群が現存していますが、これらの歴史的・⽂化的価値を明らかにするため信州⼤学・松本市の協⼒のもと調査を進め、⽂化財登録を⽬指しています。